■ 日本の裁判所と裁判の実態

私はコンビニ問題で、現在2つの裁判を抱えております。また、過去には市民オンブズマンでの住民訴訟に参加し最高裁まで争いました。その他、自らの会社に関係する債務整理問題で何度となく裁判所に行きました。コンビニ問題に関わった8年前から毎月のように裁判所を訪問しております。裁判所も行き慣れてしまうと日常スポットとして何の違和感もなくなるものですが、裁判所の雰囲気というものは確かに一種独特のものがあり、初めて行かれるかたには抵抗感があるものです。
私が毎月行くようになって感じた裁判所という場所は、そこで働く職員の対応や人間性で雰囲気が違う、変わるということです。私は何箇所かの裁判所に定期的に行くのですが、裁判所は人なりということのようです。私は裁判所の職員を偉いなどと思ったことはありませんし、私たち国民のために奉職している公僕だと考えておりますので、彼らにはそのような対応をし、応対を期待し、求めます。裁判所は法律を扱う公正・公平な高貴な場所でありますので、裁判所内における決まりには私たち国民も従わなければなりません。逆に言えば、裁判所の職員は決まりにないことで拒否したり、不誠実な応対してはいけないということになります。
私も裁判所に行き始めのころは、裁判所職員の回答や応対に何の疑問を持つこともなく了解してしまっていたのですが、最近は必ず「できないこと」、「応じられないこと」の回答があった場合には、その根拠となる法律、規則、規約を確認します。裁判所というところは、そこで働く職員の独断や裏づけのない回答、応対は許されない場所なのです。私が行き着けの裁判所では、おそらく私のことはすべての職員が知っていることでしょう。おそらく「いやな奴が来たな」と思われているのではないかと思います。
その裁判所で、先日の九月十一日には、コンビニ問題集団訴訟の最終証人尋問があり、全国から多くのコンビニ関係者が傍聴に駆けつけてくれました。傍聴席に入る前に出席簿に記入してもらうためにライティングデスクが必要と思い、裁判所職員にその旨をお願いしたところ、「当裁判所ではそのような前例はありませんので、お貸しできません。」という回答でした。「貸せないという決まりや規則があるのですか?」と質問したところ、「裁判所長に聞いてきます。」との返事、待つこと5分、「そのような机はありませんので、よろしかったらこのボードをお使いください。」ということで、ライティングボードを持ってきました。この職員は、規則や決まりがあるかどうかに答えることなく代用品を持ってきたのです。つまり、断ったがその裏づけはなかったということなのです。
この例のように、どんな些細なことでも裁判所職員の独断や慣習で行っていることが多々あり、それがわが国の裁判所の実態であるということです。こういうことに対しては、私たち国民一人ひとりが改善させることをしていかなければなりません。また、多くの方に経験のあることかと思いますが、裁判所に何か届け出や申請書類を提出する時に、「裁判所は受付だけなので、説明したり教えたりすることはできません。詳しくは弁護士などに相談してください。」などと素っ気無く言われたことはありませんか?  このような時にも、「受付だけの仕事というなら、根拠になっている法律や規則を明示してもらえませんか?」と切返してください。必ず対応が変わっていくはずであります。
公僕が国民を躾けるのではなく、私たち国民が公僕をあるべき仕事をするように躾けなければならないということです。

次に、裁判の実態について述べますが、これは私がここ8年間関係してきた民事裁判を中心にお話したいと思います。裁判員制度と直接関係ある刑事裁判については後項で述べさせていただきます。
私たちのコンビニ問題裁判は1審ですでに七年間争っております。七年間の間に三回も裁判官が交代し、現在の裁判官は、なんとか今年中に結審し判決を出したいと考えているようですが、私に言わせれば、またまだ審議不十分な裁判を、誰かの目を気にして何とか早く終結したいと考えているようにしか見えません。なぜなら、私が相手方に要求していた「相手方請求原因たる証拠」がいまだに何も提出されていないからです。裁判とはこんなにもいい加減なものなのかと思えるほど、わが国の民事裁判は大企業に有利、個人には不利なものとなっております。以下に、私が、最終証人尋問で述べた本人陳述を掲載しましたのでご覧ください。私はこの裁判を通して、「君たち裁判官がどんな判断を出そうが、そのような判断は認めないし、裁判そのものを認めない」というメッセージを伝えたかったのです。

○ 平成十九年九月十一日のコンビニ問題裁判の本人陳述

過去7年間の裁判において、何人もの裁判官が交代し、コンビニ本部が我々に請求している金額の請求原因を、公平・公正、そして、専門的、客観的に審理されることもなく裁判審理が終了しようとしている。
特に、我々が再三再四にわたり要求した、我々固有の、当然我々に帰属し、返還されなければならない、納入業者からの請求書明細と領収書、さらに、我々が本部に送金していた預け金勘定を示す総勘定元帳などの会計帳票が、一切返還も開示もされることなく審理が終了しようとしていることは、本裁判の信頼性や客観性に大いに疑念があると言わざるを得ない。
これらの会計帳票は、請求原因を特定するために欠かすことのできない証拠資料であり、これらの証拠がなくて判断や判決を出せるはずもなく、当裁判所が職権に基づき強制返還、開示命令を行わなかったことは疑問でならない。
このような審議不十分な裁判で、本部企業の請求を認めるような判決が出されるものなら、それは証拠もなく判決が出されるということであり、あるべき司法判断、公正な裁判などとは到底呼べない、裁判官自身が公僕としての義務と責任を放棄した、主権者たるわれわれ国民への不当・不法行為、挑戦行為と言わざるを得ないのである。
われわれは、日本国民たる主権者として、そのような不当判決には従うつもりはなく、あらためて公正な裁判審理を要求する。
現在、全国各地でコンビニ問題裁判が起こされているが、コンビニ問題は、「本部企業によ
る、継続的な収奪・搾取、そして、隷属労働者確保を目的とした欺瞞勧誘・不正収奪事件である。」。 本裁判においても、何度となく不正・不法会計や勧誘時の欺瞞性についてその問題を取り上げたにもかかわらず、一度たりとも真摯に審理されることはなかったのである。
このような本部企業の悪徳商法により、既に多くの自殺者や自己破産者まで出ている。しかし、司法はいまだに現状のような対応をとり続けている。
したがって、我々は、司法があるべき正しい判断を出すまで、自らを防衛し、本部企業、そして、司法と闘い続けるしかないのである。
今後、司法がコンビニ問題に対して正しい認識を持ち、正しい判断に至ることを希望する。なお、本日傍聴席にいる方々は、この裁判のために全国から集まったコンビニ加盟店関係者の方々であり、この裁判後、フランチャイズ規制法実現のために国会議員と懇談会を開く予定であることを伝えておく。                                     以上

日本の民事裁判が、なぜこのようにいい加減で、国民不在・主権者不在のものとなっているのかについて、以下に主な理由として考えられるものを記載しました。
○ 裁判官の数が少なすぎるために、十分な審議を行わない、手抜きをする。
○ 良し悪しに関わらず、中央の裁判所判例を採用し、独立した審議と判断をしない
○ 相手方の手持ち証拠の開示制度がなく、裁判官に強制権限もない。
この三つの理由が、わが国の民事裁判そのものを歪めてしまっている重大な問題だと思います。特に最後に挙げた理由については、一般国民が大企業などと闘う時には決定的に不利な要因となってしまうことであります。このほかにも、一般国民が裁判を起こせない、起こすことを困難足らしめていることは多々あります。
例えば、訴えを起す時に必要な印紙代などが欧米と比べて高すぎる(米国では一律に100ドルに対し、日本では訴訟金額に応じて高くなる。)、弁護士に依頼するにも初期費用が高すぎるなど、一般国民が裁判を起こしにくい状況を強いられており、大企業などの横暴を司法が容認していると言っても過言ではありません。
わが国では、「何人も裁判を行う権利がある」と小学校の教科書にさえ書いてあります。子供たちは小さい頃からそのように信じて大人になっておりますが、実際はどうでしょうか? 庶民が裁判を起こすことなどできない、できにくいような制度になっており、したがって、国民が自らの主権実現をできない状況下に置かれております。
以下に、日本がいかに司法後進国なのかを表す数値を取り上げてみます。
まず、裁判所運営に使用される予算について見ると、国家予算総額が79兆6860億円に対して、裁判所予算は3331億円で、国家予算のわすが0.41パーセントです。
また、裁判官の人数についてですが、米国が人口10万人当たり16人、英国が同7人、ドイツが同25人、フランスが同9人、日本は同2人であり、国民一人当たりの裁判官数を比較すると、先進国で最も少ないという有様なのです。(2006年度裁判所データブックより)

次に、公権力の違法行為や違法性を争い、公権力にある一定の歯止めをかけることができる行政事件裁判の発生数を見てみますと、米国が人口10万人当たり22件、英国が同8件、ドイツが同637件、フランスが同200件、日本が同1.7件であります。(建築紛争・五十嵐他著・岩波新書より) この数字は何を物語っているのでしょうか? 日本が諸外国と比較して公権力行使が適正、適法に行われているからなのでしょうか・・違います。行政訴訟は民事訴訟よりもさらに裁判が起こしにくい、裁判を起こしても勝てる見込みがまったくないという理由によるものです。
わが国の裁判の実態は、以上のように、とても国民に身近な裁判所や裁判などとは名ばかりのものであり、諸外国の法律家から官僚社会主義などと揶揄されているのです。

「民主国家のバロメーターは、行政事件訴訟の数である。」
「裁判は、最も正しい国民主権実現の場である。」
「裁判を起こす、受ける権利は、憲法が保証した国民の基本的な権利である。」
 現在の弁護士たちは、弁護士が過剰になっていると主張しているようだが、論理的であるはずの弁護士の主張とは考えられないものである。日本は「裁判数が過少すぎるのである。」


■ 日本には陪審制度があった

最高裁判所は現在、2009年から始まる「裁判員制度」の啓蒙・広告を、各地裁判所を
通して進めております。この裁判員制度は、司法制度改革の一環として行われる各種施策の中のひとつであります。この度の司法改革のスローガンは「国民に身近で、速くて、頼りがいのある司法の実現」ということですが、美辞麗句の単なる羅列であり、司法官僚たちが本音で考えているとは決して思えるものではありません。 私は大いに疑問を抱いております。
ところで、この裁判員制度の創設趣旨や理由については国民に詳しく知らされることなくできてしまったものであります。立法に関わる国会議員にも大きな問題がありますが、当時の政府は国民に説明義務を果たすことなく勝手に作り上げたものだと言わざるを得ません。私は裁判員制度を詳しく知りたいと思い、地域の裁判所で開いた説明会や映画上映会にも何度か参加しましたが、どうも納得がいかないことが多くありました。疑問に感じることがあれば裁判所職員に質問しても、「それは最高裁に聞かないとわからない」という回答を繰り返すだけで何ら国民の疑問答えられるものではありませんでした。これから述べる陪審制度については「制度が生きていることを知っているが、なぜかは最高裁でないと知らない」という実に無責任な回答をするだけです。

○ わが国の陪審制度について
一八八九年、大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されたが、この憲法の制定を議論していた当時にも、陪審制度を盛り込んだ憲法草案が、複数の民間団体から出された。
陪審制度導入に向けて本格的に動きだしたのは、一九〇〇年代に入ってからで、日本の政治において、政党が次第に力を強めてきたその頃、いわゆる大正デモクラシーの時期に向かい、政治の民主化を求める多くの声が出てきた中で制度化されることとなった。
陪審法の成立に中心的役割を担ったのは、政党・政友会の原敬でした。原は、2つの事件をきっかけに、陪審制度の導入をすすめようとしました。
一つは、一九〇九年に起きた日糖事件といわれる疑獄事件です。当時、検察権力は非常に力を持ち、政治的疑獄に対して積極的に介入しました。これは、政治を担う政党にとっては大きな脅威でした。この日糖事件で、多くの議員が拘束され、検察に取調べを受けました。政党側は、こうした検察の捜査などが人権を無視した過酷なものであったと主張しました。
二つ目は、一九一〇年の大逆事件です。この事件裁判は非公開で進められ、国家権力による秘密裁判として当時問題になりました。
一九一〇年二月、当時、政友会の有力者であった原敬は、自らが中心になって、政友会「陪審制度設立ニ関スル建議案」を議会に提出しました。この建議案は、全会一致で衆議院を通過しています。
一九一八年九月、原内閣が成立しましたが、一九一九年五月には、陪審制度の立法化について閣議の了承がなされました。同じ年の十一月から、陪審制度についての具体的な検討が始まりました。 陪審制度の具体的な制度設計は、内閣総理大臣の諮問機関である臨時法制審議会、司法省の陪審法調査委員会、枢密院の陪審法案審査委員会を経てなされ、ついに 一九二三年、陪審法として成立しました。この間、枢密院が法案に反対するなど紆余曲折があり、また、一九二一年十一月には、原敬自身が暗殺されるという事件もありました。
陪審法は、五年間の施行準備期間を経て、一九二八年(昭和三年)から施行されました。政府は、国民に制度を周知させるため、五年間の準備期間の間に、のべ3,339 回の講演会で124万人の聴衆を集めたほか、284万部のパンフレット類、十一巻の映画を作成しました。陪審法における陪審員は、直接国税三円以上を納める日本国民の男子から無作為抽出で選ばれた十二人で構成されました。対象事件は、被告人が否認している重罪事件。陪審員は、有罪・無罪の結論を出し、裁判官に対し「答申」しますが、裁判官は法律上これに拘束されず、「答申」を採用せず審理のやり直しを命じることができました。また、被告人は、陪審員による裁判か、裁判官による裁判かを選択することができました。
この法律の下で行われた陪審裁判は四百八十四件、無罪率は16.7%でした。
一九四三年、陪審法は停止されるに至りました。その理由については、「年々利用されなくなり、制度が定着しなかった」、「戦争が激化する中で陪審制度維持のための労力を削減する必要があった」などと言われております。しかし、陪審法は、「廃止」ではなく「停止」になっています。
以上がわが国の陪審制度についての説明でありますが、この陪審制度は、現在でも効力が停止されたまま法律として生きているということです。この度の司法制度改革を審議する時、このような事実について政府は国民に説明すらしておらず、すべては隠蔽して立法化を進めました・・まさしく、国民に対する欺瞞行為であります。立法を司る国会議員についても同罪であります。隠蔽国会を広く開示、公表するのは国会議員の国民に対する義務と責任であります。まじめに政治家をやれと叱責されてもやむを得ない失態であります。
この度の裁判員制度が、あるべき司法の確立に必要不可欠なほどのものであれば許せるとも言えますか、後項で述べるように欠点・矛盾だらけの裁判員制度であり、このような制度は一旦凍結し、再度抜本的な修正がされるべきであります。