■ 民事事件、行政事件にこそ裁判員制度を導入すべき

前項でも何度となく述べていますが、「裁判員制度」創設の真の目的は何なのか? そして、なぜ一部の刑事裁判だけなのか? 私にはいまだに理解も納得もできません。少なからず私のように一度でも裁判に関わりを持った方々なら同様の疑問があるものと思います。
ここでは、裁判員制度が民事裁判にも行政裁判にも導入されればどのような裁判になるものなのか考えてみたいと思います。そして、裁判員制度が、実は民事事件、行政事件によりふさわしい制度ではないかということに言及したいと考えます。

諸外国と比較して、日本国民にとって裁判所という場所がとても縁遠いようなものとして存在しております。それは、民事訴訟や行政訴訟(米国が人口10万人当たり22件、英国が同8件、ドイツが同637件、フランスが同200件、日本が同1.7件)の発生件数で比較しても一目瞭然であります。そのような状況が何十年も続けられてきた中で、一部の刑事事件裁判(軽犯罪を除く重要事件)について、裁判員として国民は参加しなさいという法律ができてしまいました。
私は、コンビニ問題裁判で過去七年間裁判をしてきました。この裁判を通して、裁判官が会計や簿記に弱いこと、コンピュータで作成された資料を鵜呑みにしてしまうことなど、専門分野について専門家が必要であれば裁判員として同席していただき判断をすべきではないのかと何度も思いました。
さらに、コンビニ問題とは「本部企業の不正会計による加盟店の金員収奪と労働力搾取を目的とした欺瞞勧誘」でありますが、私の裁判は、コンビニ本部企業から売掛金と契約違約金請求を受けている裁判でありますが、私は売掛金の請求原因が虚偽によるものであり、契約不履行を行っていたコンビニ本部には契約違約金を請求する権利はないという反論をしており、特に、売掛金の請求原因たる請求明細と領収書、そして、私が預けていた現金の明細たる現金総勘定元帳の返還と提出を求めていたのですが、七年間の裁判でこれらの証拠資料が返還、開示されることはありませんでした。裁判官は、これらの会計帳票が開示されなければ請求原因が特定されないことを知りながら、公権力で強制返還・開示させることを行いませんでした。日本の民事裁判や行政裁判では、なぜこんな理不尽、不合理なことが行われ続けているのでしょうか?
わが国の裁判官たちは、刑事裁判の原則 「疑わしきは被疑者の利益に」ということを、刑事裁判で遵守せず、民事裁判や行政裁判において引き当てしております。実に異常な裁判が平然と行われ続けております。 
わが国では、裁判の相手方の手持ち証拠の開示制度がありません。さらに、懲罰的な賠償制度がありません。つまり、大企業や行政を相手に庶民が裁判を起こそうとしても、手足を縛られて不利な闘いを強いられる状況下で裁判をしなければならないということなのです。さらに、訴状に貼付する印紙税が高額である、弁護費用負担が重いなどの理由から、国民の権利としての裁判すら行えない状況であり、このようなことが大企業や行政の横暴を許してしまっているということなのです。
わが国のこのような現状下で、もし民事裁判と行政裁判に裁判員制度が導入されたらどのようなことが予想されるでしょうか? 
裁判員刑事裁判との比較で考えてみることにしますが、わが国の刑事裁判では、犯罪捜査から起訴、公判まで公務員たる警察、検察、裁判官という公務員、公権力が排他的に関係しております。特に、犯罪捜査については前に述べた通りの閉鎖的、密室的な中で行われており、排除的、専属的状況で公権力が行使されているということです。裁判員が刑事裁判に関わりを持つのは公判だけであり、公判以前のことについては「治外法権的」な状況に置かれ、被疑者の有罪・無罪、量刑を決めるに際してあるべき判断材料から阻害されているということなのです。
民事裁判や行政裁判に裁判員制度が導入された場合、前頁の刑事裁判と比較して、捜査段階から起訴までの公権力による行為が除外されることになります。つまり、原告から裁判が起こされると同時に、公判前整理手続きとして双方から提出された証拠資料の整理や裁判審理方法について打ち合わせが行われ、公判が開かれることとなります。民事裁判では、原告・被告が双方民間人や法人となることから、公権力が作成した調書のような追認方法でなく、双方の争点や論点を十分に審理しなければならないということになり、裁判中において必要性があれば裁判員から相手の手持ち証拠の提出命令などを出すことが可能となります。さらに、裁判員たる民間人にとっては、日常生活の中で馴染み易い問題やトラブルが裁判争点となりますので、大企業や行政という庶民と対峙する関係にある裁判当事者に対しては、その程度・悪意性などにより懲罰的な賠償を求めるなども実現する可能性があります。また、社会生活経験の浅い裁判官は、人生経験の豊富な中年・壮年の方々が裁判員であれば、圧倒されることとなるでしょう。裁判官は法律的な指針だけを示せば良いだけであり、時として、白黒を付ける判決というより、双方に対しての和解勧告や調停的な意味合いを持つ裁判になる可能性すらあります。そして、最も期待されるべきは、裁判により人間的な、血の通った裁判になる可能性があるということになります。
このように考えてくると、民事裁判や行政裁判に裁判員制度を導入することは、庶民対大企業、庶民対行政という対立構図を持ち込むような裁判制度を構築するという結果を招き、大企業と行政にとっては現在よりかなり不利な状況での裁判になってしまうということになります。こいうことだけは回避したいという官僚独特の思惑が、「刑事裁判のみへの裁判員制度」ということになったと思われるのです。
官僚と財閥が大反対するであろう民事裁判の裁判員制度、行政裁判の裁判員制度でありますが、一部の刑事事件への裁判員制度導入が、いかにその目的が不明・曖昧で、動機が不純であるか、多くの皆さんは推測できることと思います。
官僚たちが今回の裁判員制度で主たる目的としていることは、現在の公権力主導の不当刑事裁判を、国民参加に参加させることによってオブラートで覆い隠してしまうことなのです。わが国の刑事裁判は、犯罪捜査から裁判終結まで、そこには公正さや公平さなど微塵もない官僚支配の魔女裁判と言えるものであります。私たち国民は、こんな裁判に手を貸して良いものでしょうか?
刑事裁判の裁判員制度は凍結
民事裁判と行政裁判にこそ裁判員制度の導入を!
まだ間に合います。政権交代でこれらのことを実現させましょう。
■ 日本のサラリーマン・ヒラメ裁判官

2004年10月、最高裁判所長官町田氏は、新任裁判官の辞令交付式で次のように訓示したそうです。(2004年10月19日朝日新聞掲載)
「上級審の動向や裁判長の顔色ばかりをうかがうヒラメ裁判官がいるといわれるが、私は少なくともそんな人はまったく歓迎していない。」

私のコンビニ裁判を担当している代理人弁護士からも良く言われました。
「あの人たちは東京地裁しか向いてないんだよ。」と・・何を意味しているのか最初は分かりませんでしたが、現在は良く理解できます。
わが国においては、法律に従い、法律を最も尊重し、遵守しなければならない裁判官自らが、わが国の基本法たる憲法を守っていない。ヒラメ裁判官は憲法76条(良心に従って独立して職権を行使)の違反行為を平然と行っているのです。最高裁長官そのものが、裁判官が遵法精神に欠け、腐敗していることを訓示で述べるなど、言語道断であります。精神が麻痺しているのが現在の最高裁判所だと言える証であります。
このような裁判官に裁かれる国民はたまったものではありません。裁判官諸君、司法の崩壊は無法国家への扉を開くということを肝に銘じることです。あなた達は守られる城壁の中でのうのうとしているだけであり、無法とはその城壁が崩れ去るということなのです。

裁判官がヒラメに好きこのんでなったものとは考えられませんが、問題は個々の裁判官ばかりでなく、それらを統制・管理している最高裁判所と本来はけん制独立の立場にある行政・法務省との関係であります。裁判官は最高裁の管理下のもと転勤、昇進が決定されます。憲法によって身分保証されているとは言え、裁判官も最高裁判所という本社に所属するサラリーマンであり、本社に栄転したいと考えるのが人情というものです。独立した身分、独立した判断が保証されているものの所詮はサラリーマン・ヒラメなのであります。このようなことは、私たち国民が起こす裁判結果にも重大な影響を及ぼしております。判決を出すにも本社ばかりを見て、参考にしているのです。本社のご意向に反する判決が出せない束縛を受け続けているということなのです。刑事、民事に限らず、行政裁判においてはなお更その傾向が顕著であります。行政訴訟において行政敗訴、国敗訴の判決を出した裁判官は即刻左遷させられるということは事実・実態のようです。
ここで、三権分立が瓦解している良い例を取り上げます。わが国では、判検交流ということが日常的に行われているそうです。判検交流とは、裁判所と法務省の間で行われる人事交流であり、裁判官が国家賠償や行政訴訟で被告となる行政側(国など)の代理人となるために行政庁に出向するということです。人事交流ですから、裁判所に戻ってくれば再度裁判官に就くということになります。

法務省は行政、裁判所は司法であります。この例は、行政と司法がグルになって国民と対峙するということを意味します。わが国はすでに三権分立など画に書いた餅であり、民主国家としての体をなしていないということなのです。
このような異常な状態は数十年延々と続けられてきました。これらを打破する方法はないのか?
実はあるのです。この度実施されることとなった裁判員制度の矛盾を、その裁判の場で叩きつけてやることなのです。裁判員に選ばれたら、積極的に参加し、第一回公判の場で「憲法違反による辞退申し出」を行うことです。ヒラメ裁判官には突発的な出来事に即刻判断はできません。おそらく、その裁判は紛糾するでしょう。

わが国の裁判官諸君にあらためてお聞きしたい・・

あなたは、誰のために裁判官をしておりますか?
あなたは、何のために裁判官をしておりますか?
あなたにとって、社会正義とは何ですか?
あなたは、基本的人権とはどういうことだと考えますか?
あなたは、裁判中に被告人の人権を考えておりますか?
あなたは、自分と同じ権利を持つ国民を裁いているという認識はありますか?
あなたは、日本国民の一人だと思いますか?
あなたにとって、幸せとは何ですか?

裁判官諸君には真摯に考えていただきたいのです。国民すべてからヒラメ裁判官などと揶揄されるようなら、あなた達の権威もわが国の司法も終わりだということを・・

■ 最も糾されるべきは裁判官と裁判所、そして、ひも付き弁護士

わが国の裁判制度は、先進諸国の中で最も遅れている、透明性に欠ける、公正さに欠けるもののひとつだと言われております。それは、権力サイド、主に官僚たちでありますが、裁判制度を極端に利用しにくい状況に作り上げてきたからにほかなりません。それらを象徴するのは他の先進諸国との比較において、行政訴訟件数が極端に低い例からもわかります。国民が行政の不当・不正行為を訴えても、行政とグルになったヒラメ裁判官が判決を下すわけですから、行政は安心して不当行為を続けられるのです。国民の公僕である公務員が、主である国民に小便をひっかけ、後ろ足で砂をかけるようなものです。
裁判とは本来、何の目的で行われるものなのでしょうか?
当然、刑事、民事、行政裁判ごとにその目的は異なるものですが、公権力と国民という、国家を形成する最も重要な関係における行政裁判について、裁判こそ公権力や官僚たちの横暴さを抑制、コントロールできる方法であるはずなのです。裁判は専ら紛争解決の手段・方法だという触れ込みは官僚たちの理屈であり、裁判というものは、本来は国民主権実現のために行われるべき国民の権利であるはずであります。官僚たちは、国民にこのような裁判の本来の目的や方法を知られることを大変恐れているのです。裏を返せば、行政訴訟の多発が政府、官僚たちの横暴を抑止し、チェック、コントロールする力となるということです。
現在、2009年実施に向けて裁判員制度の広告活動が各地で頻繁に行われております。当然、国民の税金を使って行われていることですが、私がどうしても疑問でならないのは、法律家たる弁護士は、法律の素人である私のような一般国民ですら気が付くはずの「まやかしの裁判員制度」を当然知っているはずでありながら、最高裁が行っている裁判員制度の啓蒙活動に協力的なことなのです。
現在行っている裁判員制度の啓蒙活動では、わが国の犯罪捜査の実態や公判前整理手続きについての内容と裁判員の関わりなど、いわゆる国民にとってマイナスイメージとなるであろうことにはほとんど触れておらず、いいとこ取りの説明義務違反啓蒙活動が平然と行われております。弁護士諸君、あなた達はこんないい加減な欺瞞行為を甘んじて受け入れられるのですか? 実態とかけ離れた架空の裁判劇を見せたり、あるべき正しい説明を隠蔽したりと、このようなことで国民に対して裁判員制度に賛同させるように誘導する・・これは、まさしく国家的な詐欺行為以外の何物でもありません。官僚統制の元、ヒラメ裁判官とヒモ付き弁護士が蔓延する国になってしまったのかと思えるほど、おかしな状況であります。
「それでも、ぼくはやっていない」という映画にも描かれていましたが、国選弁護士の存在意
義や役割について、あれが実態なのかと思いたくなるほどひどいものですが、日本の司法はまさしくこの映画と同じ実態なのです。弁護士は、その資格が国民に認められて付与されているということを忘れてはいけません。付与してくれた国民と対峙して何の意味があるでしょうか。
弁護士諸君に考えていただきたい・・
・ あなたは、誰のために弁護士をしているのですか?
・ あなたにとって、社会正義とは何ですか?
・ あなたは、基本的人権の擁護とはどういうことだと考えます?
・ あなたが、弁護士として守るべき人、守るべきものは何ですか?
・ そもそも、弁護士とは何ですか?

 最後に、現在、裁判員制度の啓蒙活動や広報活動で、最高裁の公金不適正支出問題ややらせタウンミーティング問題、さらには、最高裁の予算プールの裏金問題などが取りざたされておりますが、社会正義を実現すべき国家の最上位裁判所でこのようなことが行われているとすれば、それはすでに司法崩壊が現実のものとなってしまっているということであります。裁判官も官僚も、国民の信頼の上にのみ存し、国民の信託に基づいて存在しているということを忘れているなら、それはすでに国家崩壊状態だということです。
 悲しいかな、人間という生き物はことの是非にかかわらず保守を望むものです。わが国の司法も行政も徳川幕府末期の状態なのでしょう。真の民主主義とは、それを獲得すること、そして、それを維持することは、闘うことによってこそ可能なことであります。司法と行政の保守と腐敗は国民によって糾弾、打破されなければならないのです。
■ 国民主権回復と確立のために官僚との闘いを

わが国は、他の先進諸国から「官僚社会主義」と言われているそうである。社会主義かどうかは別として、確かに官僚が国の行政を牛耳り、江戸時代から長らく続いてきた官僚行政がいまだに続いている。行政が国民本位で、公平、公正に行われ、官僚や他の公務員たちが、遵法精神を旨とし奉職していれば問題はないのであるが、最近の事件や事例、実態を見るまでもなく、公僕としてふさわしくない行為や言動、さらには、公金横領や着服など、日常的に行われているという実態であります。
本書でこのたび取り上げた「裁判員制度」の問題なども、実は、さらに官僚支配を維持、延命したい官僚たちがそのシナリオを作り、不勉強な政治家や策略を持った政治家、さらには、彼らのパトロンとなっている大企業や財閥の意向なども取り込まれて法制化されてきたものなのです。
官僚は、「国民は主権思想に目覚めないでほしい」と願い、財閥の連中は、「国民は貧乏人であり続けてほしい。」と願っているのです。それらはすべて、彼らの利己的な保身思想から出ている本音であり、この度の「まやかしの裁判員制度」などもその代表的なひとつだと言えることなのです。
私は、被害妄想的な考えでこのようなことを述べているのではありません。皆さんにもぜひ冷静にお考えいただきたいのです。現在の与党が長年にわたり行ってきた政治は、「利は大企業・財閥のために」、「安定は官僚のために」という政治でありました。国民の医療・教育・福祉のためにどれだけ一般国民に負担が増やされてきたか、そして、どれだけ、大企業や財閥の利のために優遇措置や制度が増やされてきたか。
私は、この度のまやかしの裁判員制度との闘いこそ、官僚支配打破の大きなきっかけになるものと考えております。国民主権を侵害する元凶となっていた警察、検察機関の改革と改善、そして、三権分立から逸脱している司法の改革など、今まで自らが抱えていた国民不在の悪行を、まやかしの裁判員制度を自ら作ることによって、自ら国民に暴露されるような状況をさらけ出してくれたのです。現在、裁判員制度に不参加、反対という国民は70パーセント以上といわれておりますが、この方々がまやかしの裁判員制度に気が付けば、さらに本格的な反対運動や阻止行動に移行するものと考えられます。そして、そこから官僚支配打破の闘いが始まるものと思われます・・すべては、私たち国民の主権回復のためであります。

裁判員制度は、原則として凍結、そして、見直しを要求する
実施強行なら、すべての国民は憲法違反による参加辞退を主張すれば良い
いずれ、現行裁判員制度は紛糾、瓦解することとなろう



おわりに

 私が住んでいるのは、福島県郡山市の近隣地域、阿武隈高原にある小さな町です。所轄裁判所は、福島地方裁判所郡山支部となっております。
 私がこの裁判所に足繁く通うことになったのは、8年前の「コンビニ問題裁判」を行うようになってからであります。裁判を行うようになってから、同時期に「コンビニ問題研究サイト」をWEB上(http://www2.ocn.ne.jp/~combini/)に開設しました。この種の裁判は現在全国で多数起こされており、2004年には、コンビニ最大手のセブンイレブン本部が加盟店に敗訴するということなどもありました。しかし、大企業相手の裁判というものは、中小零細業者や個人事業主には裁判を起こすことすら困難な現状であり、明らかに大企業が反社会的行為や犯罪を行っていても、それらを裁判により糾弾し、賠償させることはできずに、泣き寝入りせざるを得ないというのがわが国の現実であります。また、フランチャイズ商法を規制する法律が存在しない現行法制度のもとでは、コンビニ本部企業が明らかに不正会計収奪行為を行っていることがわかっていても、裁判を起こして賠償させることは困難なことなのです。
 私は、このような現実でも闘える方法や方策を、書籍を通して提案し、できるだけ多くのコンビニ加盟店経営者の方々に啓蒙する活動を行ってきました。さらに、ロビー活動と救済を主体とする全国的な組織づくりに奔走してまいりました。わが国の裁判所が、裁判所本来の役割を果たさない以上、コンビニ加盟店経営者は、本部企業からの不法行為に対し、その排除と防衛、そして、被害の回復を自らの創意工夫と実力行使で行うしかないのです。
 この度実施される裁判員制度が、本書で書いたように矛盾だらけ、継ぎはぎだらけ、趣旨・目的不透明の状態のまま、まもなく実施されようとしております。
 しかし逆説的にとらえれば、このような中で実施されるからこそ、わが国の裁判というものが、いかに国民から乖離し、密室の中でいい加減に行われてきたのかということを、私たち国民すべてが知るところとなるとも言えるのです。
今までは、裁判の当事者にならない限り裁判のいい加減さや主権を無視した大企業寄り、行政寄りの裁判を経験することはできませんでした。しかし、裁判員制度が実施されれば、不特定多数の国民がその現場に立ち会うことができるようになるのです。日本の司法の後進性や杜撰さを知る上で絶好のチャンスと捉え、当面は、真の司法改革を目的として大いに参加してみたいものです。
官僚たちがどのような仕掛けや小細工をしても、所詮、国民の賛同が得られない限り有効たらしめることは難しいのです。そのためにも、私たち国民は、日ごろから主権実現のために労力を惜しまず行動を起こさなければなりません。
近代人権思想のきっかけとなった革命が起きた国・フランスでは、以下の事件がありました・・
政府が軽油税の引き上げを発表した時、全国から運送業を営む業者が数千台のトラックでパリ市に駆けつけ、運輸行政庁舎を取り囲み反対運動をしました。それを取り締まっていた警察官は、「デモは君たち国民の権利であるから大いにやりなさい。しかし、君たちが役人を軟禁したり、傷害を行ったりすれば君たちが罪人となってしまう。私は、君たちが罪人にならないように君たちを守らなければならない。だからここの枠内以上には入らないでデモをして下さい。」と言ったそうです。
 皆さん、この警察官が本当の警察官なのです。誰をどのように守らなければならないのか、そのことがわが国の警察、検察に欠落していることなのです。
 裁判員制度に参加するようになれば、おのずとわが国の犯罪捜査の問題や人権侵害行為に気が付くはずです。
 官僚統制主義を目的として作られた「裁判員制度」が、それを作った官僚たちの思惑と正反対に作用し、真の司法改革を促す起爆剤になる可能性も十分考えられることなのです。
そして、国会議員諸君に申し上げたい。あなた達が立法しなければならないのは、「国民の主権を確保し、国民を守るための法律」であり「、行政官僚や大企業・財閥の暴走や横暴を抑止する法律」であるということを肝に銘じてほしい。
最後に、本書をお読みいただいた皆様に、ぜひお願いしたいことがあります。総選挙ごとに実施される最高裁判所裁判官の信任投票には、すべて不信任の×を記していただきたいのです。絶対に空白のまま投票しないでほしいのです。これも司法に対する国民意思表示の行動なのです。最高裁判所はヒラメ裁判官たちを統括・支配している本丸であり、ここへの強い国民意思表示はとても大切なことなのです。
 
 私は、最近判決が出された「植草痴漢事件」は、権力によるデッチ上げの冤罪事件だと思っております。米国の著名ジャーナリストもこの事件についてコメントを出しておりますが、現在の警察、検察権力は一般国民を犯罪者に祭り上げることなど容易いことなのです。そういう異常なシステムになっているということなのです。皆さんには、ぜひ「それでもぼくはやっちていない」という映画を見ていただきたい・・あれはまさしくわが国の司法の実態だからです。

おわりに、本書が、わが国の裁判や司法の実態、そして、司法制度の問題についてお伝えできたとすれば幸いであります。

平成十九年十月
筆者